ジョバンニとねこ

繊細すぎてあまりわかってもらえない心を吐き出す場所。

おじいちゃんとの思い出

私の実家では、母方のおじいちゃんとおばんちゃんとも、小さな時から一緒に暮らしていた。

おじいちゃんは大きな手術で九死に一生を得てから治療のため、働くことはできなかった。いつも家にいて、家の持っている田んぼ仕事や、野球をテレビで見ているおじいちゃんの姿しか見たことがなかった。

 

幼稚園の頃、送り迎えはいつもおじいちゃんにしてもらっていた。

小学校の時も、雨の日はおじいちゃんが送り迎えをしてくれた。

車に乗っている時、おじいちゃんは、いつもテレビで見たニュースの話や、聞きかじった偉い人がしていた話をかなり湾曲して教えてくれた。そのせいで、「ペラペーラ。ワタシ ニホンゴ ワカリマセーン」は英語だと教えられて、素直に小学生の頃までそうなのだと信じていた。

 

水泳も習っていたので、スイミングスクールまでもお母さんではなく、おじいちゃんが送ってくれることが多かった。

そんな送り迎えをしてもらっていたある時、おじいちゃんの同級生のおばあさんと会った。おじいちゃんは久しぶりだねとそのおばあさんと世間話を始めた。そのおばあさんは健康のためにスイミングスクールに通っていると言っていた。少し喋って、そのおばあさんと別れた後、私に、「あの人は、おじいちゃんの同級生でな、でも全然白髪もなくて若かったなあ」と言った。たしかに、綺麗な黒髪を短髪に切り揃えていて上品な人だった。私は「きっと苦労してないから白髪がないんだよ」と言った。当時の私は本当にそう思って言ったことだったけど、おじいちゃんは「そうか。(私)は、ええこと言ってくれるなあ。ありがとう」と言って目を潤ませて感動してくれた。あの時の素晴らしく感動した気持ちは今でも覚えていて、私が守られてばかりいると思っていた誰かが、私の言葉で悩みが一つ救われてくれたことが本当に嬉しくて堪らなかった。

 

私が風邪をひいた時、おじいちゃんは家族の他の誰よりも心配してくれた。

りんごを向いて持ってきてくれたり、2階の部屋で1人で寝ていたから、「何かあったらこれで電話しな」と固定電話を私の枕元に持ってきてくれた。お母さんには、こんな所に電話なんか持ってきて!と怒られていたが、私にはあの不器用な優しさがとっても嬉しかった。

 

就職した時に、一度地元に戻った。

職場で体調を崩して急いで迎えに来て貰わないと行けなくなった時、おじいちゃんが来てくれた。おじいちゃんは昔送り迎えをしてもらっていた時よりも随分高齢になって動くのも大変になってきていたのに迎えに来てくれた。私は、情けなくて仕方なかった。

 

私はそのあと東京で働くようになった。

そこからおじいちゃんと過ごす時間はめっきり減った。

入院した、もう長くはないかもしれないという話を聞いたのは、1年前だった。

1年前の秋、おじいちゃんは亡くなった。お母さんからの連絡を受けて、地元に急遽帰ったが、私はおじいちゃんの最期を見届けることはできなかった。お葬式のときは、久しぶりに親戚の人と会ったので、気疲れして妹とお父さんと愚痴を言って眠れるだけ眠った。小学生になった従兄弟が、号泣していて叔母さんに慰められていたのが、一番印象に残っている。

 

初めておじいちゃんがもういないのだと実感したのは、年末に家に帰ったときだった。

いつもなら家に帰ったら、おばあちゃんが「(私)ちゃん、おかえり〜」と言って始めに出迎えてくれ、そのあとおじいちゃんが「おかえり、よう帰ったなあ〜」と声をかけてくれたのだけど、もうその声は聞こえなかった。

 

ちょうど一年前の夏、私は鬱病で2ヶ月休職して、実家に帰っていた。

その時、家族が出払っている日中はよくおじいちゃんと顔を合わせた。

おじいちゃんはかなり弱っていた。その頃からもう長くはないかもしれない、といつも母に言われていた。今思えば、あの時実家に帰ることになったのは、神様からのプレゼントだったのかもしれない、と思った。そうでもなければ、折れそうな心に感じる家族の温かみも、私はあまり感じることなく、生きていたのかもしれない。これからも知らずに生きて行くことになったのかもしれない。

おじいちゃんには、ずっと私のことを心配かけたままだった。

 

今、やっと私は生涯一緒に居てもいいと思える人に出会えた。

おじいちゃんには見せられなかったけど、私は幸せだし、今でもおじいちゃんは私の中に生きてる。

私の人生には苦難だらけだと思っていたけれど、その苦難はこれから一緒に生きていく家族に私が与えられるものを獲得するための苦難だったのかもしれない。生きていたら、たくさん嫌なこともあるけれど、一番大事なのは、帰る場所があること、そこでは何も飾らず、何も不安に思わずに居られること、それだけなのかもしれない。それさえあれば、どこにだって行けるし、いつだって戻ってこれる。母は、おじいちゃんのことが苦手だったみたいだけど、そんな場所を作ったおじいちゃんは、私にとっては大きな存在だった。ありがとう、おじいちゃん。