ジョバンニとねこ

繊細すぎてあまりわかってもらえない心を吐き出す場所。

本当の自分を認める話

小さい頃から、楽天的でありながら、厭世的なところがあった。

どの集団に属していても、周りと私の間には透明な壁があって、はしゃぐ彼らの中に同じように居ることはなかった。彼らの声は、どこか小さく聞こえていて、私はいつも透明な壁に囲まれた中で、私だけの世界を守っていた。彼らは地上で走り回っていて、私だけ水槽の中にいるような、そんな風だから同じようには走り回れない。彼らは、当たり前に息ができるけど、私は同じように息をしようとするたびに泡をぼこぼこ言わせている、そんな感覚だった。

 

それでも、愛想は良かったし、人は好きだし、寂しがりだった。そのことが、私を外交的な人なんだと周囲に思わせたし、私自身そうなのだと思っていた。

 

よくストレスをちゃんと発散できているか?と周りに思われることがあった。運動や飲み会を勧められたけど、私にとっては、それは疲れることでしかなかった。家に帰って暗い部屋に一人、世界のシンとした物音に耳を澄ませながら、ほぼ全ての感覚をシャットダウンして寝転がっていることが、私の回復方法だった。

 

私の肌感覚にはなるけれど、世の中はどうも外交的な人向けにできているように思う。例えば、飲み会に行くとたくさん話して発散できる人、友達との旅行がリフレッシュになる人。

みんな誰かと居る時に、楽しく、エネルギーを充実させているように見える。そして私自身、その解決方法が当たり前なのだと思っていた。

 

でも、現実の私は、多くの時間を他人と過ごしたら、1人になって、五感の全てをシャットダウンしないと私の内面は回復しない。仲の良い人は少し別だけれど、他人といたらむしろ元気がなくなってしまう。楽しそうに話せるのは最初だけ。そして回復しないと、思考がこんがらがった糸のようになり、色んな情報や言葉がもつれる。自分で糸を引っ張って滑らかに真っ直ぐにすることは、一人の時間と泣くことと睡眠以外におそらくない。

けれど、そんな風に引きこもったり黙ったり泣いたりすることは、普通の人から見ると、病んでいるように見える。だから、私は自分が病んでいるのだと思っていた。何かの病気なのだと思った。精神科にも通ったし、薬も飲んだ。でも結局良くはならない。直ぐに疲れるし、泣く頻度は少なくならないし、皆と同じようにできなくて苦しくて辛くて、自分は欠陥品のように思えて、でもそう思いたくなくて必死で色んな我慢をして皆と同じように振舞おうとする。その結果、様々な体調不良に見舞われた。

 

でも、違った。

そこまで我慢しなければ普通になれないのなら、ならなくていいじゃないか。そんな矛盾を抱えているのが私で、私は私以外にはなれない。水中のカッパは、陸のチーターには走りで敵わない。だって競技種目が違うもの。

 

そのことに気づいた今、体の疲れとは裏腹に、心は凄く自由な色をしている。自分さえ自分を認めていれば、周りに私はこうして欲しいという要求が言える。無理に我慢しなくていい。こんな簡単なことを気づくのに、20数年という果てしなく長い年月がかかった。

 

世間で良しとされる性格と反対の性格を持つ場合、どれだけありのままの自分を認めてあげて、と言われても、罪悪感、無価値観、色んなものに邪魔されてなかなか認められずに苦しんでしまうものなのかもしれない。