ジョバンニとねこ

繊細すぎてあまりわかってもらえない心を吐き出す場所。

おやすみ

朝起きると、カーテンから漏れる光に溢れていた。カーテンを開けると、久しぶりの晴天だった。ここ最近、朝から雲もなくすっきりと晴れ渡る日は珍しかった。空も私のお休みを祝福してくれているみたいだった。

まだ今日は始まったばかり。今日は何をしようか。晴れわたる空の下、家の中でベッドに寝転びながら、まずは本を読む。何をしたっていいし、何もしなくてもいい。あれをしたいこれをしたいと考えるも、実行するのはめんどくさい。でも、めんどくさいなんて考えないで、とにかく楽しそうな心躍ることをたくさん考えよう、心が躍りすぎて体も躍りそうになったら、めんどくささを超えて実行するだろう。心を踊らせて、久しぶりの休みを楽しもう。

 

春は眠いの話

今日はとっても晴れてて暖かい。

春って感じの日。

夫はお出かけしているので

わたしは1人お家でのびのびしている。

夫がいるとゲームばかりしてて何かしらうるさい。

いないときにはテレビも消して

外で子供の遊ぶ声しか聞こえない静かな空間で

春の部屋の匂いを嗅いだり本の匂いを嗅いだり

本を読んで色んな人の心の機微や風景を知ったり

そんなことがあまりにもしあわせ。

うつらうつらと春の昼間をすごす。

 

生理前

今日はたぶん生理前。

コンディションはさいていさいあく。

でも、ちゃんと歯を磨いてマウスピースも洗浄中。

洗浄待ちの間に寝室に帰ってきたら、

そこはアロマディフューザーの小さな灯りと

物が少なく、でもところどころ私のうさぎぬいぐるみやくまさんだきぐるみがいる

シンプルで大好きな寝室の風景に落ち着くなぁとホッとする。

心の状態が最悪なのでさぞかし寝室も整頓されてなくて

最悪だろうとつい思い込んでしまっていたから、

予想外の綺麗さにびっくりしたので余計にそう感じたのだろう。

いつもの風景が素敵で見直したり、大事にしようと思えるのは、

辛い時の特権だ。

日々是好日。辛い時には辛い時にしか見れない風景がある。

1日1日を愛おしく大切にしよう。

明日会社に行きたくない

あした会社に行きたくない

そんなに本調子じゃないから、

笑えるか不安。

家でゴロゴロ仕事したい。

そうじゃなきゃ嫌だ。

家なら誰に気兼ねするでもなくゴロゴロできる。

寝ることだってできる。

春が来たよ

昨日まで寒くて冬のようだったのに

急に春がやってきた。

Tシャツで外に出てもおかしくない陽気。

最近春と秋が少なく、夏と冬しかないような気がする。少しさみしい。

 

今日は会社はおやすみ。

家事をしたりのんびりお茶を淹れたり

普段忙しくて散らかってた家も心もすっきりしたみたい。

 

普段、色んなことに疑問を持ったり、

自分を責めたり、そんなことが多いけど、

誰しも分かり合えるはずもないのだから、

自分は自分で堂々として、でも伝える努力は忘れずに、

私だけでも、親しい人だけでもわかってくれればそれでいい。

 

そんな母譲りの信条を持って生きていきたい。

繊細で何が悪い

私は、根っからの繊細な人だ。

 

小さな頃は、まず、根っからの少食だったので、幼稚園での給食ではいつも食べられるまで遊びに行ってはいけないと言って、お昼休みの時間があまりなかった。小学校でも、いつもお昼休みになると食べなきゃいけないプレッシャーで気持ち悪くなっていた。水が嫌いだったので競泳をやられされたけれど、水泳はカロリー消費が半端なく、ご飯が食べられない私は、いつも母やコーチに怒られていた。人前でも気にせず怒られ、私はご飯を食べなければいけないプレッシャーにいつも押し潰されていた。

 

水泳で遠征したとき、いつも夜に具合が悪くなった。疲れすぎて気持ち悪くなるのだ。そのせいか、わいわい騒ぐ人とはいつも距離を取っていたし、遠征先ではいつもお腹が痛いと一人だけ先にホテルで眠っていた。デートもろくにできなかった。誰かと遠出をすると、必ず夜には力尽きて食欲もなく、ただただぼーっとして眠気が来るのを待った。疲れた時は眠ることすらしんどかった。

 

そんなこんなで社会人になったら、まずは集団行動を朝から晩まで強制される新人研修が耐えられず、特別措置を取ってもらう。次は転職して、作業効率は良いから残業はあまりしないが、忙しくないと思われ仕事を頼まれる。残業した後に、誰かとご飯にいく体力がない。風邪を引いて4日休んだり、そんなことばかりだ。

 

私は働く体力がないのではないかと不安で仕方なかったが、そうだとしても働かなければ食べていけないのだし、もうこんな私だと割り切って生きて行くしかないのだ。

 

そう思うと、ずんずん勇気が湧いてきて、休む時は罪悪感なく休めるようになった。自分への御褒美もケチらなくなった。しんどい時はしんどくていいのだ。まずはしんどい自分を甘やかすのだ。すると、自然と元気が湧いてくる。最初はもう頑張れないと思っても、必要な時間を休んだら、体が教えてくれるように自然とやる気がでて動けるようになるタイミングがやってくる。

だから、それまでは何の負い目も感じず、一番自分を大事にしてあげることが大切だ。

 

私はまだ手探り状態だ。でも、自分は自分なのだから、堂々と生きていこう。やっと実感とともに、そう思えるようになった。

おじいちゃんとの思い出

私の実家では、母方のおじいちゃんとおばんちゃんとも、小さな時から一緒に暮らしていた。

おじいちゃんは大きな手術で九死に一生を得てから治療のため、働くことはできなかった。いつも家にいて、家の持っている田んぼ仕事や、野球をテレビで見ているおじいちゃんの姿しか見たことがなかった。

 

幼稚園の頃、送り迎えはいつもおじいちゃんにしてもらっていた。

小学校の時も、雨の日はおじいちゃんが送り迎えをしてくれた。

車に乗っている時、おじいちゃんは、いつもテレビで見たニュースの話や、聞きかじった偉い人がしていた話をかなり湾曲して教えてくれた。そのせいで、「ペラペーラ。ワタシ ニホンゴ ワカリマセーン」は英語だと教えられて、素直に小学生の頃までそうなのだと信じていた。

 

水泳も習っていたので、スイミングスクールまでもお母さんではなく、おじいちゃんが送ってくれることが多かった。

そんな送り迎えをしてもらっていたある時、おじいちゃんの同級生のおばあさんと会った。おじいちゃんは久しぶりだねとそのおばあさんと世間話を始めた。そのおばあさんは健康のためにスイミングスクールに通っていると言っていた。少し喋って、そのおばあさんと別れた後、私に、「あの人は、おじいちゃんの同級生でな、でも全然白髪もなくて若かったなあ」と言った。たしかに、綺麗な黒髪を短髪に切り揃えていて上品な人だった。私は「きっと苦労してないから白髪がないんだよ」と言った。当時の私は本当にそう思って言ったことだったけど、おじいちゃんは「そうか。(私)は、ええこと言ってくれるなあ。ありがとう」と言って目を潤ませて感動してくれた。あの時の素晴らしく感動した気持ちは今でも覚えていて、私が守られてばかりいると思っていた誰かが、私の言葉で悩みが一つ救われてくれたことが本当に嬉しくて堪らなかった。

 

私が風邪をひいた時、おじいちゃんは家族の他の誰よりも心配してくれた。

りんごを向いて持ってきてくれたり、2階の部屋で1人で寝ていたから、「何かあったらこれで電話しな」と固定電話を私の枕元に持ってきてくれた。お母さんには、こんな所に電話なんか持ってきて!と怒られていたが、私にはあの不器用な優しさがとっても嬉しかった。

 

就職した時に、一度地元に戻った。

職場で体調を崩して急いで迎えに来て貰わないと行けなくなった時、おじいちゃんが来てくれた。おじいちゃんは昔送り迎えをしてもらっていた時よりも随分高齢になって動くのも大変になってきていたのに迎えに来てくれた。私は、情けなくて仕方なかった。

 

私はそのあと東京で働くようになった。

そこからおじいちゃんと過ごす時間はめっきり減った。

入院した、もう長くはないかもしれないという話を聞いたのは、1年前だった。

1年前の秋、おじいちゃんは亡くなった。お母さんからの連絡を受けて、地元に急遽帰ったが、私はおじいちゃんの最期を見届けることはできなかった。お葬式のときは、久しぶりに親戚の人と会ったので、気疲れして妹とお父さんと愚痴を言って眠れるだけ眠った。小学生になった従兄弟が、号泣していて叔母さんに慰められていたのが、一番印象に残っている。

 

初めておじいちゃんがもういないのだと実感したのは、年末に家に帰ったときだった。

いつもなら家に帰ったら、おばあちゃんが「(私)ちゃん、おかえり〜」と言って始めに出迎えてくれ、そのあとおじいちゃんが「おかえり、よう帰ったなあ〜」と声をかけてくれたのだけど、もうその声は聞こえなかった。

 

ちょうど一年前の夏、私は鬱病で2ヶ月休職して、実家に帰っていた。

その時、家族が出払っている日中はよくおじいちゃんと顔を合わせた。

おじいちゃんはかなり弱っていた。その頃からもう長くはないかもしれない、といつも母に言われていた。今思えば、あの時実家に帰ることになったのは、神様からのプレゼントだったのかもしれない、と思った。そうでもなければ、折れそうな心に感じる家族の温かみも、私はあまり感じることなく、生きていたのかもしれない。これからも知らずに生きて行くことになったのかもしれない。

おじいちゃんには、ずっと私のことを心配かけたままだった。

 

今、やっと私は生涯一緒に居てもいいと思える人に出会えた。

おじいちゃんには見せられなかったけど、私は幸せだし、今でもおじいちゃんは私の中に生きてる。

私の人生には苦難だらけだと思っていたけれど、その苦難はこれから一緒に生きていく家族に私が与えられるものを獲得するための苦難だったのかもしれない。生きていたら、たくさん嫌なこともあるけれど、一番大事なのは、帰る場所があること、そこでは何も飾らず、何も不安に思わずに居られること、それだけなのかもしれない。それさえあれば、どこにだって行けるし、いつだって戻ってこれる。母は、おじいちゃんのことが苦手だったみたいだけど、そんな場所を作ったおじいちゃんは、私にとっては大きな存在だった。ありがとう、おじいちゃん。